▲▼∴ 673356. ∵▲▼ タナボタ僥倖系

一つ考えられるのは
単純に磁北を狂った
精度悪さの故の誤差が
偶々いい方向に転んでいた、
といふ事態。
…でなければ、恐らくは
東西に並行して流れていた
2本の旧川に
都市計画も揃えたら
後代が驚愕するやうな
方角の精度を有した、のだ。
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▲▼∴ 673378. ∵▲▼ 京間と江戸間、そして中京間

その他、特記すべきは、
「規模が大きい」。
魏志』の記述によると、
邪馬台国には立派な邸閣があった。
平成21年11月14日・15日に
桜井市教育委員会が行った
纏向遺跡第166次調査現地説明会」の「建物D」は
「南北長19.2m*東西長12.4m」である。
238.1m2。本間で「147畳」に当り、
100人近く侍らすことが可能るが、
「1000人の婢(女奴隷)が侍り、
   武装した兵士が絶えず警備しており、
   男はただ独り弟のみが出入りを許された」
との記述とは聊か違和感が生じる。
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▲▼∴ 673400. ∵▲▼ 団地ヅ間ってのも…

ただ「建物D」は「147畳」だが、
その西10m毎に建物C・B・Aが並んで連結していた。
そして昭和53年度の第20次調査の建物Aと
平成20年度-第162次調査の建物C・Bは、
今回平成21年度第166次調査の建物Dにしても、
これで全てではない。
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▲▼∴ 673444. ∵▲▼ 宮崎康平の吉野ヶ里はもう1C後である

この太田北微高地にあったと想定される
居館区画は東西150m*南北100m。
15000m2で9259畳。
これなら数千人規模が常駐できる。
これほど大きな3Cの遺跡は日本には他になく、
規模から考えて、
狗邪韓国・対馬壱岐・末盧(松浦)・
伊都(怡土)・奴(那)など三十余国を
統治していたとしたら…ここだ!
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