〜〜〜〜鏡像段階〜〜〜〜

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〜〜〜〜鏡像段階〜〜〜〜
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◇◆◇◆◇1◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
人は人に関心をもつ。
特に顔に。
なかんづく、目を。
表皮という表皮がいわば死んだ細胞であるのに
眼球だけがアクチュアルに生きていて
外界にさらされているし、
受精卵のなかでもどういうわけか
この長大な神経細胞のみ1、2を競うようにして
作られ、母体を出るまでの十ヶ月間ものあいだ、
いい天気の日の青空の深い青色ばかりを
ずっと見つづける。

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出生して、
最初に把握するのは雑多な色彩である。
やがて次第に輪郭に目が慣れだし、
他人という概念が芽生え始める。
そうして迎えるのが、精神分析の世界で
有名な「鏡像段階」である。

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生後6ヶ月の赤ちゃんには、
自分と、鏡に写った自分との違いが把握
できない。とても自分とよく似た赤ちゃんが
ピカピカした板の向こうに居るという
驚きに終始する。
やがて、その相手が何度、
手を振っても、指をくわえても、
全て同じであることから
〈あの赤ちゃんはひょっとすると
僕の丸写しなのかもしれない〉と、
知恵が着き始めるのである。

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この知覚の飛躍を経た後は発展が速い。
抱きかかえる親が舌を出し赤ンベーをすれば
真似るし、音素の輪郭にも関心を持ち出し、
言語を把握し始める。
そうしてまもなく、引力に逆らって、
直立歩行にチャレンジしだすのだ。
そうして、最初に書く絵は決まって
人の顔なのだ。

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我々は大脳で偏見を優先するから、
視覚情報も実は大きく歪められている。
視野の端っこの方は大脳が記憶ファイルで
リアルに補正した虚像だ。
だから、寄り目にすれば幻覚を見ることもできる。
インディアンの一部には、敢えてその方法で
霊視するような手法もあるくらいだ。

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また、『ET』では誇張されすぎた月も、
我々の脳で補正したものであるため、
写真に撮った場合と大小比率が違うのだ。
このことは山などをバックに写真を撮っても
人物像が小さくなるのと同じ原理だ。

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だから160年前に写真機が発明された後も、
画家たちは失業しなかった。
人類の主体的な意識では、写真の方がウソモノで、
「テクノロジーなんざ未熟」だったのである。

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勿論、アニメで異常に大きな目が描かれるのも、
リアリティの探求に基づくものであって、
だから大通りの向こう側の人の表情まで
読めるし、目の動きだけで演ずる演技は
ジェスチャー馬鹿(→ジャック・レモンのことではない!)
よりも高い評価を受けやすい。
ザ・セル』の老優は単なる行き過ぎだとしても。

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大脳がなぜ科学的リアリティを曲げるのか?
一つには対象が本当にリアルかどうかを確認するため
小刻みに眼球が動き続けるからだ。
このサッケード運動の手ぶれ防止のため。
また、外敵に襲われてはならないため、
必要な情報にはコンプレッサーをかけたのだ。

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我々は現代、社会構造の変革で、真偽いりまじり、
操作された、深層意識に働きかける情報の洪水、
メールストラムの旋渦の中に居る。
流され、溺れかかっている。
が、ここで本当に必要なのは、本質の把握だ。
「痛みに到る快楽」とか「過ぎたるはなお及ばざるが如し」
と、古代の格言を引いてもいい。
「人体的等身大」が思想界のトレンドである。
いや、むしろ「モット・カガミ・ミテヨ」と、
サリンジャーのように観念的「鏡像段階」を
突破するべきなのだろう。
自覚がなければ観測はできないと
電子顕微鏡を見つめ続けるあらゆる科学者は口を揃えるし、
経営のプロフェショナルたちもほぼ同じことをいう。
罠が仕組まれている。
反意さえも、“読まれ”ている。
だがいくらクッキーを引き出した所で、
我々の本体は言語化されないタントラなのだ。
述語のフェイドアウトするアーラヤ識。
だから、無門漢は云っている、
「片手のなる音や如何に?」。

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