#■ 8 ■######■カント‐ラプラースの星雲説

カント‐ラプラースの星雲説
★1.【概説】:「宇宙の塵が集まり星雲になり、更にそれが集まって星が誕生する」という説。
★2.【詳細】:ニュートン物理学の影響を受けたイマニュエル・カント(1724〜1804)は1755年、太陽系の起源を解き明かす『天界の一般自然史と理論』を書いた。宇宙の生成を力学的に説き明かすことを試みたもので、宇宙が機械として純力学的に説明されることは神の存在の証明として認識され、画期的な学説であった。
★3.【歴史的背景1】:既にニュートンが天体運動を支配する法則を発見していたが、実際の天体観測では、惑星の軌道運行に不規則運動;つまり「摂動」があり、これが徐々に進行して蓄積していけば最終的には太陽系の規則的運行は崩壊してしまう。この説明を求められてニュートンは、「神がそれを正してくれる筈である」と弱々しく述べただけだった。
★4.【歴史的背景2】:これに対してラプラースは、ある惑星の運動不規則性(惑星の運動中心の軌道中心からのズレ、離心率で与えられる)が増加すれば、他の惑星のそれは減少するのであり、長期的に、かつ全体的に見て、不規則性は進行し、累積して行くのではなくて、変動は周期的に生じていることを明らかにし、確率論的に太陽系の安定性を立証したのだった。
★5.【逸話】:この研究論文を手にしたナポレオンが「どこにも神の御名がないようだが?」と尋ねた時、ラプラースは昴然とこう答えた;「陛下、私は神の如き仮説は必要としないのです!」。
★6.【業績】:「ラプラース方程式」という偏微分方程式を考察し、2個ないし3個の未知数を持つ偏微分方程式を、一個の未知倍の方程式に置き換えるという、いわゆる「ラプラース変換」に途を開いたのだった。これは運動を扱うあらゆる問題に有益なものであり、これが存在しなければ、電気磁気学や流体力学などはその入口で止まり、そこから奥へは発展しなかったに違いない。
★7.【人物像】:「フランスのニュートン」と呼ばれ、名声と富を得て亡くなったが、「我々の知っている事は少なく、知らないことは無限である」という臨終の言葉を予め用意しておき、死ぬ時にわざわざそれを云って死んだということで判るように、天才と俗物とが入り混じった複雑な人物であった。数学好きのナポレオンに可愛がられ、内務大臣、長期にわたっての元老院議員、宮廷顧問官、伯爵に任じられたが、1814年の王政復古によってブルボン王朝が返り咲いた際にも、他の多くの人々が失脚したにも関わらず、ラプラースはうまく立ちまわって引き続き重用され、ルイ19世によって侯爵に列せられた。ために当時から、「政治的に無節操なオポチュニストだ」との批判があった。が、また彼は、若い新進の学者には非常にやさしく親切だったのだ。
★8.【評価】:したがって史書ではケチョンケチョンに貶されている反面、科学書では高い評価を与えており、一概に善悪だとか何点とか評価しにくい。但し有名の星雲説は、他でもない古代ギリシアのエピキュロスの元素論の焼き直しである。
★9.【補記】:ピエール・シモン・ラプラース(フランス、1749〜1827)は、「ラプラス]ともよく表記される。半々くらいである。よって『カント‐ラプラスの星雲説』でもある。
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